「いまに在ること」
「行為に没頭する忘我の境地」
「自分のアイデンティティをちっぽけな自己像ではなく、大いなる存在に置くこと」
という状態が常態になることを目指してきました。一時期、ある程度うまく行ったこともあります。こういうのを悟りと言えばそうなるのでしょうか。
逆に、そうでない状態。
自意識があって、その自意識をベースに色々なことをアレコレと考えている状態。さきほど記したのが悟りだったら、こちらは煩悩でいっぱいな状態と言えます。
これがあらゆる苦しみを生み出す原因だという。
自分の自己イメージを必死で守ろうとする苦しさや、自己イメージが危機に陥ったときの激しい自己嫌悪などを思い起こすと、確かにそうです。
数年前、精神的に調子が悪かったとき、セルフヘルプ系の本を漁ったりフラワーエッセンスを試したり色々なことをやってみました(精神科には一回だけ行きました。ウツ症状という診断を受けメイラックスをもらいました)。その中で、一番効果を実感して、症状が落ち着いた以降も続いているのは、上に書いたエックハルト・トールの考え方です。もともとはブッダが提唱していたことらしいです。
私がそれをどんなふうに試していたかというと、例えば
・今自分がしている一つ一つの動作をちゃんと意識して、行為に没頭するよう心がける。
・いつも自分の身体に意識を置くようにする(地に足がつくという感覚とリンクしている気がする)。
・自意識を手放す。そうすると、余裕ができてくるというか、否定されて激しく落ち込むとか、褒められて舞い上がるみたいなことがなくなる。いわば、自分を評価されることに鈍感になる。
こんな感じで、それはある程度成功しました。
ただ、そうなると、そのままでわりと幸せなので、あまり何かを表現しようという意欲が湧いてこなくなるんですよね(私は何かを表現するときに不満や違和感を原動力にしていたということがわかったわけですが…)。そして、あれこれ考え事をしなくなるから、あまり言葉が出て来なくなる。
エックハルト・トール曰く、そういう状態であるほうがむしろ天啓のように適切な言葉が出てくるということなので、私が「いま」への留まり方が足りないということも考えられますが。
それから、やっぱり自意識を手放すのは淋しいのだということに気がつきました。自分という存在、自分が思い描く「ぼうごなつこ(含:なすこ、@nasukoB、防後奈津子)」という自己像が肯定されることの喜びは、やっぱり人生に必要だと改めて思います。これがなかったらつまらない。
というわけで、最近、煩悩の再評価をしています。ただ、ここで大事なのは、「どちらか」ではなく「どちらも」ということ。悟りの状態が人生に不可欠であることには変わりありません。私は生活の中で、意識して両方を交互に取り入れていきたいです。
今まで、エックハルト・トールの考えを実行しようとして成功したり違和感を感じたり、ツイートして心に染み込ませてきたりと、散々取り組んできましたが、ようやく自分の中で消化できたような気がします。全部消化したわけではないけど、少なくとも、鵜呑み段階から、一段進むことができました。