「転売」とか「中抜き」に悪いイメージがついているのは「商品を右から左に流すだけで労力なくお金をかすめ取る」という印象があるからなんだろうな。
正確に商品に労働力が込められているか否かというよりも、支払う側が納得するかどうかという心理的なことなんだと思います。
おさらい→【4コマで読む資本論】4回目 「商品には二方向の見方がある」
使用価値とはその商品の本来の使い道というのかな、例えば、パンなら食べる、鉛筆なら書く、洋服なら着る、車なら運転する…ということです。そして、交換価値とは商品を他のものと交換できる価値、「売り物になる」という感じの価値です。
ところが、お金というのは使用価値はなく交換価値だけしかないというヘンな商品です。
もちろん、こういった交換の要になる商品があるからこそ、こうやって便利に暮らせているわけですが、同時に色々とヘンなことも起きてくるんですね。そのあたりはおいおい描いていくことにしましょう。
当たり前といえば、当たり前なのですが、この概念が資本論を勉強するのに大切になってくるみたいです。時給とか労働時間とか労働力の話につながってくみたい。
それから、労働をこういう風に二つの見方で見るというのはマルクスの発明で、それまでの人はそういうものの見方自体が思いつかなかったんだそうです。
『入門講座「資本論」を学ぶ人のために』に、このあたりをわかりやすく説明されている箇所があったので引用します。
「労働に二つの種類があることは、言語にも反映しています。英語では使用価値をつくる労働、質的に規定されている労働とよばれる、とあります。日本語でも、「はたらく」とか「仕事をする」というときには、ある目的のために動くことや何かの役目をはたすことを意味し、他方、「労働」ということばは、具体的労働を、「労働する」ということばは抽象的労働をあらわしているといえるでしょう。」
昔、お金として流通していたお米や塩は、たとえ交換ができなくても自分たちで食べることができました。まあ、貝殻は微妙ですけど、見て楽しいという使用価値がありました。家畜や布をお金のように交換物としていた地域もありました。交換価値もあるけど、使用価値もちゃんとある状態です。
※「交換価値、使用価値とはなんぞや」というのはこちらをご覧ください
お金代わりに使われていた物は世界各地でバラバラでしたが、そのうち金・銀に集約されていきます。
なぜ金と銀なのかというと、あらゆる意味からお金としてちょうどよい物質だったからだそうです。
金と銀はお金の他にもアクセサリーとか銀の食器とかいろいろ使い道がありますよね。
金と銀はお金にちょうど良かったものの、たくさんあったりすると家で保管するのも泥棒が心配ですし、持ち歩くのも重くて大変です。というわけで、たくさん金銀を持つお金持ちは貸し金庫に預けることが多くなりました。その預かり証が「紙幣」お札の原型です。
いま私たちが使っている紙幣、その昔は紙幣を銀行に持っていけば、実際に金と交換してくれました。
でも、そのうち市場に出回るお札に実際の金が追いつかなくなって、金と交換できる制度が中止となり、「国がお金を認めるからお金」ということになりました。これが今の紙幣です。
そして、データ上の取引の割合が多くなってきた現在、とうとうお金は交換価値だけで使用価値がゼロの存在になってしまいました。「お金は使えなくなった」とはこういうことです。